ケラのこと   受賞オメデト   1999/05/02記事 

1999/05/02付:中日新聞:朝刊(画像版はこちら



書評コーナー
「フローズン・ビーチ」 ケラリーノ・サンドロヴィッチ著
評者・大笹 吉雄(演劇評論家)


 一九九八年度の岸田國士戯曲賞を受賞したのが本作である。
 この戯曲賞は新人の作品を対象としている。その意味では、現代演劇の動向をもっともよく反映しやすい賞といえる。
 それだけに、現代演劇の事情にうとい、あるいは若い世代の舞台活動に接したことがないという演劇ファンがこれを読めば、「文学」を目指してきた戯曲の変容に一驚するに違いない。
 もっとも、大勢として、戯曲が「文学」を志向していたのは、一九七〇年代くらいまでだという考え方も成立しないわけではない。以後は戯曲という概念が揺らぎ、書き手にその意識がなくなって久しいのが現状だと言って言えなくはないのである。
 第一、戯曲を構成する現代日本語自体が変わっているし、日々変わりつつある。それをリードするのが若い世代であるとすれば、戯曲の変容は、日本語そのものの揺れ方と表裏一体だと言わなければならない。「フローズン・ビーチ」もこういう動向の中で書かれ、だから言葉が揺れている。例えばこういうせりふ。
 「だよねー。(あの、ダヨネーである)」
 「あの、ダヨネー」だという注釈が、一体いつまで通用するか。
 ここにこの戯曲の方向性がある。
 早々に分からなくなるだろうことを承知の上でせりふが書かれ、「いちごポッキー」や「タイタニック」や「オウム」や「ノルウェイの森」といった“時流のもの”がぼんぼん放り込まれている。そういう手つきの中から編み出されるのが、「今」という時間の感触である。
 架空の島で展開される殺意に満ちた五人の女性の、一九八七年から二〇〇三年までの、ということはバブルの時代をはさんでの、十六年間にわたる話である。この時間の設定が作品を深いところで支えてはいるが、何よりも「今」との戯れが命だというべく、それはかなりよく掬い取られている。あっけらかんとして軽妙で、焦点の定まらないのが魅力である。

 ケラリーノ・サンドロヴィッチ
劇団「ナイロン100℃」を主宰する日本人劇作家のペンネーム。著書に『私戯曲』『ウチハソバヤジャナイ』など。




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